麻チカラで水を浄化する
国産の麻の炭をセラミックにしました。
麻の炭は、聡明で清らか、まるで太陽のような温もりがありますが、とてもふわふわ柔らかくて触ると簡単に粉になってしまいます。
そのままでは、浄水器やシャワーに入れたりする事は出来ません。水の圧力に負けて流れてしまうからです。
そのために、水の圧力に負けないように固くする必要がありました。
麻の炭を「低配合」したセラミックを作る事は、とても簡単です。
しかし、それでは麻のエネルギーが低く、意味がありません。
一定の硬度を保ちつつ、ぎりぎりまで麻の炭を「高配合」にする必要があります。
セラミックメーカー5社に打診したところ、4社からは不可能と言われましたが、残り1社から「チャレンジしてみたい」と回答を得て、幾度となく試作をして頂きました。待つ事、半年…。6ヶ月かけて、硬度・配合量ともに、満足のいく麻炭セラミックが誕生しました。
日本人と麻
日本の麻は、縄文時代の遺跡からも見つかっています。
日本人は昔から麻と共に生きていました。
「うずのみず」「あわのみず」で使用している麻炭は、栃木県鹿沼市(旧粟野町)で400年の歴史を持つ麻農家様の麻を使用し、麻の持つ素晴らしいチカラで水のエネルギーを清らかにします!
麻は古来より邪気を払う力があるとされ「魔除け」「神様が宿る」神聖なものとして扱われてきました。
神社のしめ縄や横綱のしめ縄、岩田帯、共白髪など日本伝統や神事、冠婚葬祭、人生の大きな節目には麻が使われ欠かす事の出来ないものです。
また麻は種を蒔いてから収穫までが110日と成長がとても早く、大きく根を張る事から人々の成長・発展・商売繁盛・子孫繁栄などを意味し縁起物として私達と深く繋がっています。
日本人と麻
麻は、世界最古の繊維作物とされ、その繊維は縄文時代の遺跡から出土されているが、その正確な同定を進めた研究者は少なく、またしかし2010年代には研究が実施できるようになりその進展が見込まれている。
麻製の縄や、籠も発掘されている。大麻取締法(1948年制定)があるため、むやみに入手できなかったが栽培免許取得者の協力を得ることが可能となったということである。
布目順郎の1983年の報告と『目で見る繊維の考古学』(1992年)から、最古とされる鳥浜遺跡の縄文時代の草創期の縄3点の原料は、大麻2、大麻様1とされていたが、このうち1点は再調査したところ判定不能であったことが、2017年3月に報告され、またこの時期の縄に多い繊維としてリョウメンシダが挙げられている。
弥生時代の布は、ほとんどが苧麻(カラムシ)ではなく麻製である。
『魏志倭人伝』では、紵麻が育てられていると記され、苧麻を意味する紵を分けるのか議論が分かれるが、『後漢書倭伝』では、麻紵と記され、一般に分けて読まれる。
和幣(にぎて、にぎたえ)とは、栲や古くは穀による帛(布)、あるいは麻や絹の織物を指し、『古事記』の天岩戸(あまのいわど)の伝承の中で、真榊の上枝に八尺勾魂(やさかのまがたま)、中枝に八咫鏡(やたのかがみ)、下枝に白丹寸手(しろにぎて)と青丹寸手(あおにぎて)をつけ、布刀御幣(ふとみてぐら)として捧げ、祝詞を唱え、踊りを踊ったところ、天照大神が顔を出し世が再び明るくなった。『古語拾遺』によれば、麻によって青和幣(あおにぎて)を、穀によって白和幣(しろにぎて)を作ったと記される。
神に捧げられた布をさす「ぬさ」に、麻が使われたことから麻の字が当てられたのである。
儀式が形式化され、祓い具の大麻(おおぬさ)が生まれた[3]。『万葉集』に、「夏麻(なつそ)ひく」という枕詞があり、「なつそをひいて績(う)む」と、麻の皮を剥いで糸をつむぐなどという意味で使われる。
『延喜式』では阿波忌部(あわいんべ)が天皇即位の大嘗祭に際して、神服(かむみそ)としての麻で織った麁服(あらたえ)を調進することと定められている。
また、他にも上総国(かずさのくに)の望陀(もうだ)郡、現在の千葉県木更津市や袖ケ浦市辺りの、麻織物の望陀布は最高級品であり大嘗祭や遣唐使の貢納の品に使われた。
徳島県、木屋平村の三木家に伝わる古文書では、1260年(文王元年)の亀山天皇の践祚大嘗祭にて麁服(あらたえ)を進上したことが記されており、それ以前からこの役を担っていたと考えられる。
和紙としての麻紙(まし)は、正倉院の文書をはじめ古くから用いられており、その献物帳では757年(天平勝実8年)6月では白麻紙、7月は緑麻紙、天平実字2年6月では碧麻紙であり、赤・黄など様々に残っている。
奈良時代から平安末期にかけて写経が流行し、おびただしい数が今日まで残存し、穀紙が登場すると麻紙は上質な紙としての位置づけを残しつつ主流ではなくなったが、写経においては重要視されただけに上質の紙を使ってあり、後の昭和時代初頭の紙の歴史の研究に便利なほどであった。『延喜式』には、麻紙は麻を材料としたものと、麻を材料とした布を材料としているものに大きく分かれると書かれている。
群馬の岩島麻は、過去に上州北麻(じょうしゅうきたあさ)と呼ばれ「吾妻錦」「黄金の一」といった最上級の製品を生産しており[19]、織物としての風合いがよく幻の麻と言われる。
戦前では、1909年(明治42年)の小学校の理科の教科書で、大麻について教えられており、栽培方法や繊維の製法、用途としては、布、糸、縄、帆、下駄の緒、茅葺屋根、小鳥の餌に麻の実を、また麻油があるとしている[21]。また、中学校の教科書では、加えて紙に用いられることが教えられており、教員用の教科書では、大麻は衣服の原料として綿のない時代から今日まで広く栽培され重宝されたと記載されている。
戦後、大麻取締法によって繊維用の大麻まで栽培が非常に厳しくなり、大麻布もほとんど作られなくなった。
1977年には岩島麻保存会が発足し、後に群馬県選定保存技術第一号に認定されている。
天皇即位の大嘗祭(だいじょうさい)は、徳島県の(阿波忌部の末裔とされる)三木家による麻の献上が通例であったが、1990年の天皇即位の大嘗祭では、技術が途絶えた徳島に岩島麻保存会が技術を提供した。
岩島麻は、宮内庁、神社庁、日本民族工芸技術保存協会などに納められ、いくばくかは奈良晒、近江上布のために出荷され使われている[19]。長野県、鬼無里では、従来、畳糸としての麻が生産されており、2008年には栽培から製造までを地元で復元できるようにと、復元教室が開催され、製造された糸は柔道の講道館の畳を再現したい畳職人に提供される予定だとされた。
文化としての大麻
日本人と麻の関りは一万数千年前の縄文時代まで遡り、日本各地の遺跡で痕跡が発見されています。
※参考/麻の歴史(前篇) – 日本麻紡績協会
麻(大麻)は、戦前の日本では奨励作物として日本各地で当たり前のように栽培されてました。
神事には欠かせない植物で、穢れを祓う聖なる植物として大切にされ、神社では特に必要不可欠な存在です。
※参考/神宮大麻(伊勢神宮の御札)
※参考/神宮大麻とは何と読む?どうして大切なの?お祀りの仕方は?
※参考/大麻 (神道)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本人は、稲作より古い1万年以上前から大麻という「農作物」を衣食住に利用してきた。繊維を布や魚網に加工し、茎を屋根材に、種子(麻の実)を食用に、葉を薬に用いるなど、ほんの70年ほど前まで、大麻は日本人にとって非常に身近な存在だったのである。
※日本人が知らない「大麻」が違法薬物になった理由~栃木県の大麻農家を訪れる昭和天皇の写真も 東洋経済ONLINE